慶熙宮(キョンヒグン)

発行日

朝鮮王朝時代後期の宮殿の一つで、1616年建立当時は慶徳宮と称したが、1760年に慶熙宮と改称した。ソウルの西側に位置していることから、西宮とも呼ばれている。
離宮(有事の際に王が避難したところ)で建てられたが、李适の乱が起こり昌慶宮が焼失されると、1624年2月から慶熙宮に住み始め、この時期から慶熙宮は280余年間、色々な王の居所として使われる。朝鮮時代の仁祖から哲宗に及ぶ10代の王が居住した所。低い山の斜面の地形を利用して建てられ、伝統美と歴史的由緒を誇る宮殿。当時は徳寿宮と繋がる歩道橋があり、正殿である崇政殿をはじめ資政殿、寝殿である隆福殿、会祥殿など約100棟に及ぶ大小の建物があったが、1908年日帝強制占領期、慶熙宮を壊してその場に日本人学校である京城中学校が設立されるにつれ、朝鮮時代の5大宮殿の中、最も多くの被害を受けた。
1988年復元事業を始め、2002年から一般に公開された。現在の慶煕宮の正門である興化門は新羅ホテルの正門として使用され、崇政門は東国大学にあったが現在は学校が移転したため、崇政殿は復元作業が行われて現在の姿になった。 1980年9月16日、史跡第271号に指定されていて、周辺観光地としてはソウル歴史博物館、徳寿宮、世宗文化会館などがある。

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見所ポイント
興化門
興化門は慶煕宮の正門であり、ソウル特別市有形文化財第19号に指定されている。もともと鐘路通りにあり、現在の救世軍センターの横に位置していた。日帝強制占領期、1932年伊藤博文のための霊廟の博文寺の正門で使うために興化門を移築した。独立以後、博文寺はなくなり、その後地には迎賓館、新羅ホテルが入りながら、正門は残されていった。1988年の慶煕宮復元事業の一環で現在の位置に復元された。

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錦川橋
慶煕宮の正門である興化門を入り、宮内に入る前に流れた錦川に置かれた石橋。1619年に建設されたが日帝強制占領期に埋没されたが、ソウル市で2001年発掘を通じて発見された、過去の石造物を土台にして現在のように復元された。欄干の石獣らは宮殿に悪い気が入らないようにと造られている。

崇政殿崇政殿は慶煕宮の正殿で国王が臣下らと朝会、宮中宴会、使臣接待などの公式行事が行われたところ。王の即位式も行われた。1618年に正面5間、側面4間の規模で建設された。しかし、日帝強制占領期1626年に建物を曹渓寺に売却した。その後、東国大学校正覚院で使用されている。現位置の崇政殿は発掘を通じて確認された位置に発掘された基壇を利用して復元された。

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資政殿
資政殿は慶煕宮の便殿として(王が普段生活した宮殿)として国王が臣下たちと会議などをした所。1617~1620年の間に建設されたが、日帝強制占領期に傷つけられ、後に発掘を通じて確認されたところに現在の建物を復元した。

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泰寧殿
泰寧殿は英祖の御真影を保管したところで、本来は特別な用途が指定されていなかった建物。英祖の御真影が描かれるとすぐに1744年にここに奉安した。現在は、跡さえ残っていなかった泰寧殿を復元した。

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瑞巖
泰寧殿の後ろに変わった形をした岩がある。慶煕宮の場所には美しい自然風景を利用した施設もたくさんあったが、現在は瑞巖と川の跡だけが残る。岩泉という意味をもつ‘巖泉’と呼ばれる泉があり昔から慶煕宮の名物であった。この巖は王様岩という意味の‘王巖’と呼ばれたがその名前によって光海君がここに慶煕宮作ったという俗説もある。

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慶煕宮(韓国語경희궁)
住所 (日本語)ソウル市 鐘路区 新門路1-126
 (韓国語)서울시 종로구 신문로1-126
電話番号 02-724-0274~6
運営時間 平日:09:00~18:00
 公休日:10:00~18:00
休日 毎週月曜日、1月1日
入場料 無料
日本語 不可
ホームページ http://museum.seoul.kr/kor/gyeung/1173415_698.jsp (韓国語)