ソウルの中心に位置する徳寿宮は、朝鮮時代の成宗(ソンジョン)の兄である月山大君の私邸であったが、1592年壬辰倭乱の際、先祖が義州まで避難してソウルに戻ってくると、景福宮、昌徳宮、昌慶宮などが焼失されたため、王族の邸宅の中、最も大きな規模であった月山大君家に王が住み始めてから‘宮’と呼ばれるようになった。
光海君の即位後、慶運宮(キョンウングン)と改称し、1897年高宗(コジョン)がロシア公使館からここへ移り、本格的に宮殿の建立が始まった。
1907年、純宗(スンジョン)へ王位を委譲した高宗がここで住み始め、それを機に高宗皇帝の長寿を願う意味で徳寿宮と改称した。
本来、一般の家を宮殿に改築したものなので、朝鮮時代の5大宮殿の中一番規模が小さく、全体の配置が整えられない中、また日帝強制占領期間に縮小された。
1910年、西洋式の石造殿や噴水が建てられるなど伝統木造建築と西洋式建築が共存している点から建築史的に意義があるとも言える。宮廷として中世と近代がよく組み合わされている。1963年1月18日、史跡第124号に指定された。
徳寿宮はビルが立ち並ぶ街の中心にあるが、季節ごとに数多くの花が咲き、秋には紅葉が美しく結婚記念写真の撮影場所としても知られている。
即祚堂
光海君と仁祖(1595~1649)が即位式を行った場所。即祚堂の扁額は高宗が1905年に皇帝に即位した後、直接書いたもの。
普御堂
徳寿宮にある唯一の2階建ての建物。他の建築物と比べても分かるように派手な彩色がされていないことが特徴。
中和殿
徳寿宮の正殿として王の即位式、外国使臣の接見など国の大事な行事が行われた所。長い歴史を物語るような古風な建物。内部の天井には2匹の龍が描かれているが、この爪の数は7本となっている。これは龍の爪の数が中国、韓国を問わず大部分が5本で王を表すのに対し、7つは皇帝を象徴するという意味を持っている。
咸寧殿
咸寧殿は高宗の寝殿で、「咸寧」という名前は高宗が国の平安を祈願し付けられた名前で、中心を境に東側は皇帝の部屋、西側は皇后の部屋となっている。
石造殿
高宗皇帝が寝殿兼便殿に使うため、1900年から1910年に渡って建立した西洋式の石造建物。静観軒とともに現在徳寿宮に残っている西洋式建物で、英国人が英国の資材で建設を進める中、1905年に日本に主導権が渡り、1910年に完成したという経緯がある。そして、高宗が他界した後、石造殿は日本美術品の展示館として一般人に公開され、1946年5月には米ソ共同委員会がここで開かれたりもした。現在、石造殿館は宮中遺物展示館が、西館は国立現代美術館分館が入っている。
静観軒
1900年、ロシア建築家により建てられた西洋式建物で、高宗が外国の使節とコーヒー会や宴会を開いた場所。裏側にはロシア公園に通じていた狭く長い秘密地下通路が今も残っている。
徳弘殿
1911年に建てられ、主に王が外国の使臣や大臣を迎え接見する所。
浚明堂
高宗が大臣と議論した所。
徳寿宮美術館
徳寿宮美術館は韓国の近代美術の形成と展開過程を体系化し、近代美術に現れる美意識と歴史間を定立することで、究極の韓国の民族アイデンティティーを具現化するため設立された。徳寿美術館は近代美術専門機関として、近代美術の調査、研究、近代美術関連企画展および所蔵品展示、各種教育プログラムの開発と運営、学術活動や出版、近代美術関連情報の国際的交流など、さまざまな事業を推進している。
王宮守門将交代儀式
朝鮮時代王宮には守門軍という軍隊があり、宮廷の門を開閉、警備、巡回する業務などを行っていた。ソウル市は朝鮮時代守門軍が交代する儀式を専門家の考証を経て1996年から再現してきている。王宮守門将校儀式は英国王室の近衛兵交代儀式のように華麗で韓国伝統宮中文化再現行事である。
日時:2010年1月~12月(月曜日およびを酷暑時や零下5℃以下の極寒時 除く)
時間:11:00、14:00、15:30
場所:徳寿宮 大漢門前
徳寿宮(韓国語 덕수궁) | |
住所 | (日本語)ソウル市 中区 貞洞5-1 (韓国語)서울시 중구 정동5-1 |
電話番号 | 02-771-9952 |
観覧案内 | 09:00~21:00(20:00までに入場) |
休日 | 毎週月曜日 |
入場料 | 大人(満18歳以上):1,000ウォン 青少年(満7歳以上):500ウォン |
日本語 | 日本語ガイド案内 火曜~金曜日 9:30、14:30 土曜日(奇数月のみ)9:30 日曜日(偶数月のみ)09:30 ※祝日の外国語無料案内はなし |
ホームページ | http://www.deoksugung.go.kr/ (韓国語・英語) |